6.覚醒したもうひとつの意識
「ダメだ」
何かに憑依されたかのように、体も眼も動かさないまま発せられたその声は、相棒が最もリラックスした状態の時だけに使うとても低い小さな声。
これまで相棒と共に歩んできたが、彼の二重人格的意識が問いかけてきたことは今までに一度もない。
「なぜだ」
復讐の邪悪な鬼の化身となった相棒が少しキーの高い声で聞き返す。
「では、聞こう。復讐してどうする」
その問をきっかけに、相棒の意識は再び心の最下層まで落ちてゆく。
このタイミングで対話をはじめたふたつの意識。
相棒の意識と思考、ビジュアライズされた映像はキャッチできるのだが、もうひとつの意識のそれらはまったく感じとることができない。
もうひとつの意識が放つ言葉を生み出しているその正体も場所も特定できない。
もしかすると…その意識は…無意識状態…
この現象が相棒の脳と心が織り成す幻覚なのか、それとも単なる妄想なのか、はたまた、分裂した意識の交流なのかはわからないが、今、確かに、ふたつの意識が相棒の心的最下層空間内で存在している。
私は突如出現した相棒の「奇妙な、もうひとつの意識」に対し、正しさを感じると同時に不思議な親近感を抱き、その意識を「シゲル」と名づけた。
その意識は心の最下層にあるのだが…
復讐心に支配された相棒は現実世界で声を発し、その行為の正当性を並べたてるが、聞き終えたシゲルも声を発し静かに不当性を説きはじめる。
「では、復讐を果たしたとしよう。復讐された者の家族はどうなる。自分の母や兄、家族や友人はどうなる。拭いきれぬ心の痛みと苦悩を一生背負って生きることになる。それは、己の死をもってしても償うことはできぬ」
「じゃあ、どうすればいいんだ。もうオレの心には何もない…自分の存在証明は復讐しかない」
「復讐か…さっき映し出したビジョンでじゅうぶんだろう」
ゆっくりと優しく言うシゲルの言葉が相棒の復讐心を静かになだめ、少しずつゆっくりと思考を安定させてゆく。
「では、聞こう。お前は何者だ?」
そのシゲルの問いに「遠藤だ」と相棒は答えたが、それを否定するかのように言う。
「遠藤…か…確かにその答えは間違ってはいないが、正しくはない。それは固体識別に必要な名前でしかない」
「じゃあ、人間だ」
「それも間違いではないが正しくない。生物学上の分類に過ぎん」
「じゃあ、ひとりの男だ」
「それも違う。ただ単に雄か雌かというだけのこと。何者か?と聞いている」
もう何の映像も浮かんでこない心の闇の中を「自分は、何者か?」と自問しながら這い蹲るように相棒はその答えを探し続ける。
新たな答えを探し出してはシゲルに答えてゆくが、ことごとく否定される。
その問答が繰り返されるたび、重たく濁った心の闇が少しずつ浄化されてゆくように感じる相棒。
それはまるで自我の崩壊を迎えた心に残った、すべての邪念の残骸をシゲルが取り除こうとしているかよう。
自分はいったい何者なのか…
その答えは…
もう見つからないようにも思えるが…
相棒は、そのまま心の闇を這い蹲り彷徨い続ける。
ようやく闇の向こうに、夜空に輝く星達の中で見えるか見えないかくらいの六等星のような、か弱い幽かな光を見つける。
その光に引き寄せられるように近づいてゆく。
光は近づくたびに遠ざかり、それが何なのかを突き止められない相棒にシゲルが再び問う。
「では、聞こう。お前は何者か?」
その時、やっとその小さな光の傍に辿り着いた相棒は、蛍を捕まえるようにそっと両手を伸ばす…
そして優しくその光を包み込んだ。
指の隙間から漏れる温かく柔らかな光。
そ~ッと恐る恐る開いた手のひらの中で光を放っているもの。
それは…
結晶化したような愛する我が息子への想い。
あぁ……
そうか…
わかった…やっとわかった…
そうだ、オレは息子を愛する者だ
「正解だ。それを知った今、自分の成すべきことが自ずと見えよう」
その言葉で屍の目には生気が蘇り、心の奥底のどこかから力が湧いてくるのを確かに感じる相棒。
「そうだ。オレは息子を愛する者。湖太郎が家で待っているんだ」
相棒は立ち上がると車に乗り込み、いつも駐車している場所に車を停め自宅に戻った。
「さあ風呂に入ろう」
妻には声をかけず息子を風呂に誘う相棒。
息子を愛する者と自覚したものの、それ以外の心はそのほとんどを失ったまま。
口調は事務的で冷たい。
「今までどこで何をしていたのよッ」
不機嫌そうに聞く妻を自我崩壊した相棒は「存在しない者」と判別し反応しない。
バスタオルを引き出しから二枚取ったその時、妻が醜い顔でさらに問い詰めてきた。
しかし、相手は存在しない者。
相棒は壊れかけのサイボーグのように表情を変えないまま息子と風呂へ向かう。
苛立つ妻が、さらに醜く歪ませた顔で静止するように怒鳴った。
「ちょっと、はっきり言いなさいよッ」
その言葉が相棒の心のどこかに残っていた邪悪な怒りの残骸に火を付けた。
「存在しない者」という認識が「排除すべき悪しき者」に変換され、それまで半開きだった両目はカッと見開かれ、烈火の如く燃え上がる怒りを込めて妻の頭を平手で叩きだした。
無言で連打する相棒のその瞳には、恨みと憎しみ、さらには殺意まで混ざりあった感情が満ち溢れている。
その時
「とうちゃん、ヤメロッ!」
息子の大きな声。
その言葉は誤作動を起こしたサイボーグの中枢プログラムを強制停止させるように相棒の思考を瞬時に沈静化させ、閻魔大王のように見開かれていた目を虚ろな半開き状態に戻させた。
「あぁ…そうだ…風呂に行くんだったな…さぁ、行こう」
父として今何を成すべきかを思い出した相棒は何もなかったようにマンション地階の浴場に向かう。
もし息子の一声がなかったら妻にケガを負わせるだけでは済まなかったかもしれない。
その日から相棒が自分から妻に話しかけることは皆無となった。
おそらく何か聞かれたとしても、感情のない必要最低限の事務的な回答をするだけであろう。
相棒の偽りの自我の崩壊は過去の記憶のすべてから温もりと色彩を奪い去った。
楽しかった思い出。
辛かったこと。
感動したこと。
嬉しかったこと。
そして…
誰かを愛したことさえも「すべての過去は偽り」となってしまったのは言うまでもない。
今の相棒にとっては「息子を愛する者」としての今日と未来だけが最も重要。過去などどうでもよく、たとえ何かを思い出したところで、それは単に「そうだった」だけのこと。
何の思い入れも感情も浮かばない。
しかし、おねぇへのおぼろげな想いが心の中で不安定に浮遊し続けているのを漠然と感じている。
そう、かすかな希望のように。
鬱のような状態に近かったが「息子を愛する者」の「父である」という自覚は、成すべきことをシンプルに映し出す。
息子を養うにはカネがいる
ならば働けば良い
その答えから次の朝、普段通り朝食を作り息子を学校に送りバイトに行くことができた。
挨拶も、作業も、条件反射のように体が反応してくれる。
だが、不完全というよりパーツさえほとんどない空っぽの心が、若い同僚達の下ネタや井戸端会議的雑談に反応するわけがない。
そんな精神状態でありながらも、そのいっぽうで空っぽの心は、瞬間瞬間に見聞きすることや体験することで、そこから必要な情報を収集し「生きてゆくための知識」として猛烈な速度で学んでゆく。
相棒の「できごと・ものごと」への対応力を養ってゆく能力は失われてはいなかった。
いや…
もしかすると…
自分が何者なのかを理解した時点で「必要な能力」と判断した心が、脳にバックアップさせたのかもしれない。
どうであれ
「偽りの自我の崩壊」を遂げた相棒は、
「出来損ないの人間」として、
新たな人生の一歩を踏み出したのだ。
これから…
目まぐるしく未来が変化してゆくのだろう。